2014年8月11日月曜日

『今昔物語に就いて』 (芥川龍之介)

芥川龍之介に『今昔物語に就いて』という一篇がある。

 私が持っているB6版サイズの本で4頁ちょっとの短い一篇だが、この一篇は芥川龍之介の古典論での白眉とも言われているそうだ。

言うまでもなく今昔物語の顕彰者は芥川龍之介だが、それよりもなによりも、このたった4頁余りの”古典論”そのものが実に面白い。

例によって、一部の隙もない文章で書かれているのだが、ここで簡潔に紹介されている今昔物語の原文での話( というより噺 )自体が面白いのだ。特に、『東方行者娶蕪生子物語(ひがしのかたにゆくもの、かぶらにとつきて、こをうます物語)の噺が面白い。

芥川龍之介という人の小説は私は一種の話芸だと思っているが、この話芸達者が、この卑猥とも言える噺を生き生きと我々に語るのだから、面白くないわけがない。

なるほど今昔物語というのは『生々しい美しさ』をもってるということが、芥川龍之介の話芸で余すところなく( 彼の独特の冗長さの皆無な文章で )我々読者に伝わってくる。

この一篇が芥川龍之介の古典論での白眉と言われているのも納得できる。
 芥川龍之介の小説が好きな人には是非一読を勧めたい一篇だ。

そもそも芥川龍之介という人は、彼の親友だった久米正雄によれば、
 『古今東西の文学に対する鑑賞家としての彼は類を絶していた。その方面では彼ほどのものは遂にない。』のだそうで、『作家としてより、大学教授として長生きしていたら、とてもえらい大学教授になれた。』そうだ。

確かに、この『今昔物語に就いて』を読んだだけでも、少なくとも私は久米正雄が言うことは、なんの誇張もないと感ずる。もし長生きして大学教授になっていたら・・・これも歴史につきものの儚(はか)ない if である。

この簡潔にして完璧な、一篇『今昔物語について』は、その文章の短さにも関わらず次の彼の自作のうたで終わっている。

***

な、醒(さ)めそねや、さ公(きん)だちや。
 市(いち)に立ちたるはたものに
烏はさはに騒ぐとも、
 豊(とよ)の大美酒(おおみき)つきぬまは
 な醒めそねや、さ公(きん)だちや。

***
「はたものも」とは「はりつけ」のことである。

芥川龍之介は今昔物語の世界を、

『たとへば金剛峰寺の不動明王はどこか精神病院の夢に似た、気味の悪い荘厳を具へてゐる。あの気味の悪い荘厳は果たして想像だけから生まれるであらうか?』

とも言及している。また芥川龍之介のいくつかの小説にも『どこか精神病院の夢に似た、気味の悪さ』があるのも確かなのだ。