2014年8月21日木曜日

『侏儒の言葉』集

「道徳は便宜の異名である。「左側通行」と似たものである。」

「良心とは厳粛なる趣味である。」

「人生は一箱のマッチに似てゐる。重大に扱ふのは莫迦莫迦しい。
 重大に扱はなければ危険である。」

「人生は落丁の多い書物に似てゐる。一部を成すとは称しがたい。
 しかし、兎に角一部を成してゐる。」

「興論(よろん)は常に私刑であり、私刑は又常に娯楽である。
 たとひピストルを用ふる代わりに新聞の記事を用ひたとしても。」

「敵意は寒気と選ぶ所はない。適度に感ずる時は爽快であり、
 且又健康を保つ上には何びとにも絶対必要である。」

「人生を幸福にする為には、日常の些事を愛さなければならぬ。雲の光、
 風の戦(そよ)ぎ、群雀(むらすずめ)の声、行人(こうじん)の顔、ーーー
あらゆる日常の些事の中(うち)に無上の甘露味を感じなければならぬ。
人生を幸福にするためには? ーーーしかし些事を愛するものは些事の為に苦しま    なければならぬ。庭前の古池に飛びこんだ蛙(かはず)は百年の愁を破ったであらう。が、古池を飛び出した蛙は百年の愁を与へたかも知れない。いや、芭蕉の一生は享楽の一生であると共に、誰の目にも受苦の一生である。我我も微妙に楽しむためには、やはり微妙に苦しまなければならなぬ。
人生を幸福にする為には、日常の些事に苦しまなければならぬ。。雲の光、
風の戦(そよ)ぎ、群雀(むらすずめ)の声、行人の顔、ーーーあらゆる日常の中(うち)に堕地獄の苦痛を感じなければならぬ。」

「天才もそれぞれ乗り越えがたい或る制限に拘束されてゐる。その制限を発見することは多少の寂しさを与へぬこともない。が、それはいつの間にか却(かえ)って親しみを与へるものである。丁度竹は竹であり、蔦は蔦である事を知ったやうに。」

「機智とは三段論法を欠いた思想であり、彼等の所謂(いわゆる)「思想」とは思想を欠いた三段論法である。」

「政治家の我我素人よりも政治上の知識を誇り得るのは紛紛(ふんぷん)たる事実の知識だけである。畢竟某党の某首領はどう言ふ帽子をかぶってゐるかと言ふのと大差ない知識ばかりである。」
「人生の悲劇の第一幕は親子となったことにはじまってゐる。」

「天才とは僅かに我我と一歩を隔てたもののことである。只この一歩を理解する為には百里の半ばを九十九里とする超数学を知らなければならぬ。」

「天才とは僅かに我我と一歩を隔てたもののことである。同時代は常にこの一歩をの千里であることを理解しない。後代は又この千里の一歩であることに盲目である。同時代はその為に天才を殺した。後代は又その為に天才の前に香を焚いてゐる。」

「民衆も天才を認めることに吝(やぶさ)かであるとは信じ難い。しかし、その認め方は頗(すこぶ)る滑稽である。」

「好人物は何よりも天上の神に似たものである。第一に歓喜を語るのによい。第ニに不平を訴えるのに好い。第三にーーーゐてもゐなくても好い。」

「わたしは不幸にも知ってゐる。時には嘘に依る外は語られぬ真実もあることも。」

「懐疑主義も一つの信念の上に、---疑ふことは疑はぬと言ふ信念の上に立つものである。 成程それは矛盾かも知れない。しかし、懐疑主義は同時に又少しも信念の上に立たぬ哲学のあることをも疑ふものである。」

「わたしは或嘘つきを知ってゐた。彼女は誰よりも幸福だった。が、余りに嘘の巧みだった為にほんとうのことを話している時さへ嘘をついてゐるとしか思われなかった。
それだけは確かに誰の目にも彼の悲劇に違いなかった。」